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宇宙よりも遠い場所 第5話「Dear My Friend」
この第5話はキマリの親友、めぐっちゃんの回でしたね。タイトルの「Dear My Friend(親愛なる友へ)」はめぐっちゃんに捧げたものでしょう。
めぐっちゃんとキマリは「共依存」していた?
冒頭の回想シーンです。おっちょこちょいで一人では何もできないキマリを、姉御肌のめぐっちゃんが手伝ってあげていました。
なんか嬉しかった。
お姉ちゃんになったような気がした。
めぐっちゃんが、キマリという心の拠り所、止まり木を見つけた瞬間です。
“共依存”については、奈良女子大学から出ている論文(#1)の一部を引用します。
共依存症の(人)とは、生きる上での安心感を維持するために、自分の求
めているものを明確にしてくれる相手を、一人ないしは複数必要としている人間である。つまり、共依存症者は、相手の欲求に一身を捧げていかなければ、みずからに自信を持つことが出来ないのである。(#1)
この”共依存”は、学者によって微妙に異なる定義がなされているので、今回は上の定義で進めていきます。
「南極」という目標に向かって走り出すまでは、めぐっちゃんとキマリの関係はこの”共依存”の状態だったと言えそうですね。
- めぐっちゃん・・キマリの世話を焼く、相談に乗る面倒見のいいお姉さんでいられる
- キマリ・・一人では何もできないのでめぐっちゃんが世話をしてくれる
「南極」という目標を見つけたキマリは・・
報瀬に出会って、「南極」という大きな目標を見つけ、一歩踏み出したキマリ。それまでは新しいことを始めるのに怯えて長続きしなかったキマリですが、今回は本気です。
出発前夜、めぐっちゃんはキマリの覚悟を知ることになります。
私、いつもモタモタして、めぐっちゃんに面倒看てもらって、どうしようどうしようってくっついてまわって・・それが嫌で変えたいってずーっと思ってたんだと思う。
キマリにとっての止まり木のような存在だった、めぐっちゃん。彼女がいなければ何もできなかったキマリ。しかしその止まり木から一度飛び立ったキマリは新しい世界を識った。
少しの間めぐっちゃんから離れたキマリは、めぐっちゃんのいない世界を識って、ひと回り大きくなって戻ってきたのです。そして「めぐっちゃんに頼りっぱなしだった昔の自分を変えたい」というキマリの南極に対する覚悟、想いの強さを知っためぐっちゃん。
めぐっちゃんの告白
出発当日の朝、キマリが家族とお別れすると、家の外にはめぐっちゃんが立っていました。
最初にお前が南極に行くって言った時、なんでこんなに腹が立つんだって思った。昔からキマリが何かする時は、私に絶対相談してたのにって。
くっついて歩いてるのはキマリじゃなくて私なんだって。キマリに頼られて、相談されて、呆れて、面倒見るようなふりして、偉そうな態度とって・・そうしてないと何も無かったんだよ私には。自分に何も無かったから・・キマリにも何も持たせたくなかったんだ。ダメなのはキマリじゃない、私だ・・。ここじゃないところに向かわなきゃいけないのは、私なんだよ・・。
自分から離れていってしまうキマリに無性に腹が立って、キマリたちが南極に行くのを邪魔するようなことをたくさんしてしまっためぐっちゃん
。ここでは、その懺悔をしています。
出発前夜、一歩踏み出して大きく成長したキマリの覚悟を聞いて、めぐっちゃんはようやく気付きます。「キマリに頼っていたのは自分のほうだ」と。そして出発当日の朝、遂にめぐっちゃんは自分の気持ちを打ち明けました。
この瞬間、二人の「共依存」の関係は終わって、二人は本当の意味での友達になったのだと思います。
そして最後のエンディングの語りです。
私たちは踏み出す。
今まで頼りにしていたものが何もない世界に。
右に行けば何があるのか、家はどっちの方かもわからない世界に。
明日どこにいるのか、明後日どこを進んでいるか想像できない世界に。
それでも踏み出す。
赤羽(Akabane)
参考文献&引用
#1 共依存の定義に関する論文は
羽渕一代 著「『親密性』の意味転換 : 『共依存』概念の批判的検討」、No.6、pp119-131、1998年。
#共依存は様々な観点から説明されています。興味があれば
加藤篤志「社会学的概念としての『共依存』-関係論的視点から-」、年報社会学論集、Vol.6、pp73-82、1993年。
#「宇宙よりも遠い場所」公式Twitter
https://twitter.com/yorimoi(2018年2月1日アクセス)